椿富士(つばきふじ) 西序二段四十五枚目: 聡ノ富士(さとのふじ) 東序二段九十四枚目: 良ノ富士(かずのふじ) 西序二段百枚目: 勇富士(いさむふじ) お客様のブラウザはジャバスクリプト(JavaScript)に対応していないか無効になっています。詳しくはサイトポリシーをご覧ください。, 14場所ぶりに幕内復帰した大関経験者の東前頭17枚目照ノ富士(28=伊勢ケ浜)が、5年ぶり2度目の優勝を果たした。, 関脇御嶽海を寄り切って13勝目。ともえ戦に持ち込まず、本割で決めた。優勝は15年夏場所以来。30場所ぶりの優勝は史上2番目のブランクで、大関経験者が関脇以下で優勝するのは昭和以降2人目。両膝の負傷や内臓疾患に苦しみ序二段まで番付を落とした男が、大相撲史に残る復活劇を成し遂げた。, 照ノ富士の付け人を約5年間務めた元幕下駿馬(しゅんば)の中板秀二さん(38)は、劇的な復活劇を信じて疑わなかった。「目標があれば、必ず戻れると思っていた」。入門は照ノ富士より7年早い。13年3月の間垣部屋から伊勢ケ浜部屋への移籍や15年夏の大関昇進。兄弟子として苦楽をともに過ごしてきた。, 両膝のけがなどでどん底の中、照ノ富士は弱音をたくさん吐いたという。「『何をやってもうまくいかないんです』と。(番付が)上がってるときは弱みを全く出さなかったので驚いた」。印象的だったのは優勝を争っていた17年春場所14日目。立ち合い変化で琴奨菊の大関復帰を絶つと、周囲から厳しい批判を浴びた。「あれから元気がなくなったように見えた。(その後の低迷は)体のことはもちろんだが、気持ちの問題も大きかったんじゃないか」と述懐する。, 序二段で復帰した昨年春場所前、照ノ富士はすでに引退を決断していた駿馬さんの自宅を訪れ「もう1回、幕内で頑張ります」と決意の報告をした。駿馬さんは昨年夏場所限りで引退。直後に部屋で行われた断髪式では、照ノ富士に「お疲れさまでした」とはさみを入れられ、ほおにキスされた。「モンゴル流なんですかね。涙が出ました」。現在は都内で介護事業を展開する企業の職員として働いている。優勝の瞬間は仕事のためラジオで聞き「感慨深いものがあった」。元付け人にとっても格別な優勝となった。【佐藤礼征】, (C)2020,Nikkan Sports News. そんなの全然ない」「状態を見ながら年齢的にもまだ若い。幕下に落ちたからと言って、辞めさせるとかにはならない」と最大限やらせて答えを出すと話し、前例がないことにも「関係ない。ここまで怪我をした人がいないだけ」と語りった。左膝の痛みに加え、糖尿病に加え腎臓結石も患っている状態に「膝はだましだまし、腎臓はやってみないとわからない」と治療方針を示していた[80][81]。さらにこの時期にはC型肝炎の治療を継続して行っていることも明かしている[82]。後に照ノ富士はこの時期のことを「ケガで番付が落ちたと思われてるみたいですけど、けしてそうではないんです。膝のケガをしてからも大関を維持できていたから、ケガだけが原因じゃないんです。そこで糖尿病に罹ったり、C型肝炎にもなってしまった。あと腎臓結石も。どうしても力が出ないんですよ。元気な時なら、筋トレも稽古もやればやるほど良くなるのに、やればやるほど悪くなっていくんですから」と語っている[83]。, 2018年6月25日に7月場所の番付が発表、東幕下6枚目にしこ名が掲載され正式に幕下陥落が決定した。大関経験者、幕内最高優勝経験者が幕下に陥落するのはこれが初めて。またこの日に東京都内の病院で両膝の手術を受けた。師匠の伊勢ヶ濱親方(63代横綱・旭富士)は再起を目指す意向を明言しているが、この手術により7月場所を全休することを表明した[84]。そのため9月場所は東幕下47枚目まで番付を落とし、自身の持っていた元大関の最低地位の記録を大幅に更新する形となった。更にその9月場所も初日からの休場を表明[85]。元大関・幕内最高優勝経験者の幕下陥落で既に前代未聞のところ、9月場所も全休したため、翌11月場所では三段目(西27枚目)へと陥落してしまった。その11月場所でも全休を表明。次の2019年1月場所での復帰を見据えて治療とトレーニングを行っていたが[86]、その西三段目88枚目まで番付を落とした2019年1月場所でも全休(休場は5場所連続、全休は4場所連続)することになり、翌3月場所で西序二段48枚目へと陥落した。序二段陥落は大関はおろか三役経験者としても初めて。四股などの基本運動は再開しており、伊勢ヶ濱親方は「関取に上がるためにやっている。万全の状態にしないといけない」と話している[87]。, 3度目の膝の手術をした頃は洋式トイレに自力で座れないほどの状態であったといい、そのような状態から師匠に引退を申し出ることも5、6回あったという[88]。 序二段まで陥落したが、付け人は免除してもらい、大関時代に付け人だった力士が雑用を手伝ってくれた[88]。

2017年11月場所は初日いきなり黒星。勝利した北勝富士に「当たってこなかったですからね。相当膝が悪いんじゃ…。相手の心配してどうすんだって感じですけど」と心配されてしまっていた[70]。そのまま連敗は伸び4連敗で5日目から日本相撲協会に「左膝外側半月板損傷で全治4週間」との診断書を提出し休場した。照ノ富士の休場は3場所連続で通算4度目。二桁をあげれば特例大関復帰だったがこの場所での大関復帰はならなかった。師匠の伊勢ケ浜親方は「膝に水がたまっているし、しっかり治さないといけない。ああいう相撲で出ては駄目。本人も自覚している」と言っていた。5日目の対戦相手御嶽海は不戦勝となった[71]。結局、千秋楽まで出場せず負け越しとなり、平幕落ちが確定した。東前頭10枚目まで番付を落とした2018年1月場所でも身体の状態は悪く、初日、2日目と幕内下位の力士を相手に良いところなく敗れた。1月16日に「2型糖尿病、約1週間程度の療養を要す」との診断休場届を協会に提出し、3日目の大翔丸戦は不戦敗。照ノ富士の休場は4場所連続となる。4場所連続途中休場は幕内では史上初[72]。今回の休場理由は、膝の怪我ではなく体調不良によるものであり、再出場の可能性もある[73]。病状は2型の糖尿病であり、18日にはインフルエンザにまでかかってしまったという。伊勢ケ濱親方は「血糖値は下がっている。血糖値が安定していれば、出られる可能性がある」とも話していた[74]。11日目より再出場したが、12日目に大奄美に敗れた段階で、大受・雅山・把瑠都に続いて史上4人目となる元大関の十両陥落が確定的となってしまった。さらに13日目も敗北し、前年9月場所から続く連敗が自己ワーストの14連敗になってしまった。結局は千秋楽まで白星を挙げられず、8敗7休で終わった。大関陥落からわずか2場所での十両転落。直近4場所でわずか2勝と苦しむ照ノ富士にAbemaTVで解説を務めていた元旭天鵬の友綱親方は、「言葉がかけづらい。各部屋で千秋楽パーティがあるけれど、声をかける人もなんと言っていいか考えるのでは」と心配していた[75]。, 3月場所は西十両5枚目で挑み、初日黒星。膝の負傷と糖尿病のため体の状態は相変わらず悪く医者からは「怪我はだいたい治っているが糖尿病で体が元に戻るまで半年と言われているけど、人の2倍、3倍努力して3、4か月で戻したい」と語っていた。皆勤したのは2017年の夏場所が最後であり、最後に白星を手にしたのは最後の大関を務めた2017年秋場所3日目の栃ノ心戦であった。半年も白星から遠ざかる状態だが本人は「落ちるところまで体が落ちて戻すのは時間がかかる。でも、前もそれで戻して準優勝できるまで戻った」と気力十分で気合を入れていた[76]。2日目の臥牙丸戦で白星をあげ、連敗は17でストップした。照ノ富士は「やっと勝ったあ」と笑顔だった[77]。しかし14日目の貴ノ岩戦で負け越してしまい、6勝9敗で終わった。14日目の貴ノ岩戦はかつての兄弟子の日馬富士の傷害事件の被害者であっただけに、取組の際には事件現場に居合わせていた照ノ富士自身に事件当時の記憶を思い出させ、照ノ富士は取組後に「相撲界に入って一番、嫌な相撲だった」とこぼすほどであった[78]。東十両8枚目で迎えた5月場所も3日目まで白星を手にすることができず4日目に左膝外側半月板損傷により休場、このまま十両残留目安の5勝を記録するため再出場しなければ幕下への陥落も避けられなくなり、元大関が幕下陥落なら昭和以降初(江戸時代の看板大関などのケースを除けば史上初)のケースで引退の声さえ出るようになってしまった。伊勢ケ浜親方は「先のことなんか分かりはしない。その時にならないと言えることじゃない」と話していた[79]。そして、怪我をおして11日目から再出場するも力なく敗れ十両残留目安の5勝を記録することが不可能になり幕下陥落が濃厚となった。結局この場所は再出場後も一勝もならずに9敗6休。不戦敗も含めて先場所から休場を挟んでの13連敗で場所を終えた。報道陣に「最後の一番だから全力でやらないとね。(15日終わり)気持ちいいよ」と語り、帰り際にはファンに「辞めないで」と声をかけられると「辞めるなんて言ってないよ」と話していた。伊勢ケ浜親方は「引退? 照ノ富士 春雄 皆さんこんにちは、モンゴルのウランバートル出身の照ノ富士です。 横綱日馬富士関や安美錦関、宝富士関、誉富士関といった兄弟子のみなさんとの濃厚な稽古で地力を鍛えることで十両昇進と幕内昇進と力士の目標を達成する事ができました。

14場所ぶりに幕内復帰した大関経験者の東前頭17枚目照ノ富士(28=伊勢ケ浜)が、5年ぶり2度目の優勝を果たした。関脇御嶽海を寄り切って13勝目。 うん」と終戦を宣言していたが千秋楽は大関取りだった高安を小手投げで倒し結局この場所12勝3敗の優勝次点で終えた。2場所連続の12勝以上は大関取りだった2015年以来となった[57]。場所後に古傷の左膝の遊離軟骨を除去する内視鏡手術を受け、徐々に良くなっていると語っていた[58]。, 7月場所は、稽古はおろか蹲踞もままならない状態で挑み[59]、初日から不調で連敗。3日目に勝利するも再び連敗。1勝4敗と苦しみ。5日目の4連敗中だった小結琴奨菊戦の敗北した取組で手術した左膝を再び痛めてしまい、6日目から休場した。6日目は正代戦は不戦敗。詳しい症状は左半月板損傷で約7週間の加療であり、来場所の出場さえ厳しいほどの重症であった。また、来場所は歴代ワースト8位、自身5度目の角番となる[60]。照ノ富士は入院し夏巡業は全休。治療に専念するという[61]。9月場所の出場は無理と見られていたが全休した夏巡業の間に「1日3度の治療と2度のトレーニング」を繰り返し、回復を進めた成果が出て「動ける体になってきた。膝もほぼ治ったし、この2年で一番いい」と明るく話し「優勝を目指して頑張る。順調に上げていきたい」と自信の様子を見せていた[62]。, 9月場所は5度目のカド番を東大関2で迎えた。しかし、初日から連敗し不安視されている膝の状態などは良いとしながらも、怪我をする前の状態に戻ったことに体がなれていないなどと言っていた。結果が伴わない事態に「自分でも分からないですね。しっかりと一番一番やるだけです」と気合を入れた[63]。3日目にようやく白星をあげるが4日目から再び連敗。さらに5日目の取組で再び膝を負傷してしまう。土俵下でも左膝を曲げられず帰りも付け人に肩を貸してもらい、記者に照ノ富士は前に出たときに痛めた「膝がズレた」と呟いていた。今後の出場も「まずどうなってるか、みてからです」と悔しそうな表情だった[64]。翌日になっても膝の炎症がおさまらず「左膝半月板損傷で約2週間の加療を要する見込み」との診断書を提出し休場した。5日目を終えて1勝4敗で伊勢ケ浜親方は「昨夜は痛みが取れて出られると思ったが、朝になって歩けない。今の状態では再出場は無理ではないか」と話していた。6日目の正代戦は不戦敗となった[65]。その後、同場所9日目の時点で大関で2場所連続負け越しとなり、14場所務めた大関から陥落が決定した。角番制度となった1969年名古屋場所以降では2017年春場所の琴奨菊以来で17人目(20例目)[66]。, 照ノ富士は来場所2017年11月場所に出場する場合は大関特例復帰の10勝以上を目指すことになり、八角理事長は「きっちり治せば2桁勝つ力はある。とにかく膝を治すこと。四股を踏んで鍛えることだ」と奮起を促した[67]。2017年10月19日に照ノ富士は秋巡業に合流。大関から陥落したことに「落ちたことはあんまり気にしていない。自信を持っていく」「休んでいても治らない。付き合ってやるしかない。やり続けたら自信にもなる。大丈夫やろ!」と話していた[68]。27日の松江場所では朝乃山と三番稽古を行った。途中、巡業部長の貴乃花からアドバイスも受けて「ありがたいです」と感謝したが、稽古では3勝4敗。最後の一番では左膝を気にし、貴乃花の「無理するな」との声掛けもあって稽古を終えた[69]。 照ノ富士春雄(大関・モンゴル) ※間垣部屋から移籍; 宝富士大輔(関脇・青森) 照強翔輝(前3・兵庫) 翠富士一成(十2・静岡) 錦富士隆聖(十13・青森) 幕内 横綱. 七ツ森部屋, 座標: 北緯35度41分26.8秒 東経139度48分45.3秒 / 北緯35.690778度 東経139.812583度 / 35.690778; 139.812583, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=伊勢ヶ濱部屋&oldid=80147833. 日馬富士公平(70代横綱・モンゴル) ※入門は安治川部屋; 関脇 照ノ富士 春雄(てるのふじ はるお、1991年11月29日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は間垣部屋)所属の現役大相撲力士。本名はガントルガ・ガンエルデネ(モンゴル語キリル文字表記: Гантулгын Ган-Эрдэнэ)。身長192cm、体重178kg、血液型はO型。最高位は東大関(2015年9月場所 - 11月場所、2017年5月場所 - 7月場所)。, 17歳になるまでスポーツとは無縁であったが、巨体を生かしたいと考えていた照ノ富士は、母国モンゴルにいた頃は横綱・白鵬の父でもあるジグジドゥ・ムンフバトに素質を見出され、柔道などを習っていた[2][3]。2007年に母と日本に観光旅行をした折に、偶然相撲部屋関係者に声をかけられて連日稽古を見学したことで、大相撲の世界に魅了された[2][4]。その時は観光もせずに相撲部屋の稽古を毎日見学していたという[2]。学業成績も優秀で飛び級を認められ、17歳で技術大学に合格[2]。両親も技術者になることを望んだが、相撲留学を決断[4]。2009年3月26日に来日して鳥取城北高校に編入し、高校3年次の全国高等学校総合体育大会相撲競技で、鳥取城北高校の団体メンバーの一人として優勝に貢献した。鳥取城北時代には後輩の逸ノ城とは違う怪力を持っていたことから石浦外喜義監督に「差されたら抱えろ」と教わった[5]。来日時点で平仮名やカタカナを書くことができ、日本語もある程度話せたという[6]。2010年のインターハイの準々決勝で埼玉栄と当たった時、それまで補欠であった照ノ富士を石浦監督は出場させた。「ガナ、ここで勝たないと優勝はできないぞ。お前を使うぞ」といった石浦監督に「何でそんな心配するんですか?大丈夫ですよ。」と言ってのける強心臓ぶりをその時の照ノ富士は見せた[7]。, 高校卒業を控えて2010年に間垣部屋に入門した。2011年1月場所前の新弟子検査を受けたが、興行ビザの取得が必要なため、初土俵は翌5月技量審査場所となった。5月技量審査場所で共に初土俵を踏んだ力士は、幕下15枚目格付出の千代大龍の他にも前相撲から取った常幸龍らがいる。初土俵を踏んでから関取に昇進するまで名乗っていた「若三勝」の四股名は、入門時の師匠である間垣親方(第56代横綱・2代目若乃花)が大関時代まで名乗っていた「若三杉」にちなんでいる。間垣部屋時代はちゃんこにも事欠き、様々な人から食料を譲り受けるなど苦難を経験した[8]。, 照ノ富士は幕下昇進まで全ての段を1場所で通過するなど順調な出世を見せ、初めての幕下の場所であった2012年1月場所は、関取経験者の出羽鳳を相手に豪快に吊り出して勝利するなど幕下でも実力十分なことを証明する5勝2敗の成績であった[9]。東幕下15枚目だった同年7月場所では3勝4敗と入門して初の負け越しを喫した。2013年3月場所限りで間垣部屋が閉鎖されて伊勢ヶ濱部屋に移籍すると、稽古環境が一気に充実したこともあって2場所連続で6勝1敗の成績を上げ、場所後の番付編成会議で9月場所での新十両昇進が決定した。新十両昇進と同時に四股名を今の師匠の旭富士(伊勢ヶ濱親方)と、現役時代は伊勢ヶ濱部屋(ただし今の伊勢ヶ濱部屋とは系統的つながりはない)の所属だった照國という2人の横綱にちなんだ「照ノ富士」と改める[9]。会見では「立合いが相撲の70%を占めると言われる。それを頭に入れて稽古してますが、まだまだ足りない。もっと頑張らないとだめです」と取り口についての課題を語った。[10], 新十両として迎えた9月場所も勢いは止まらず千秋楽に鏡桜に勝って12勝3敗で鏡桜と相星となり、優勝決定戦でも鏡桜を破り十両優勝を果たした。前場所に遠藤が新十両優勝を果たしており、2011年11月場所の勢、2012年1月場所の千代大龍以来3度目の2場所連続新十両力士の優勝が記録された[9]。翌11月場所は8日目の大道戦では組み合った状態から鼻血が出て「行司待った」が懸かるハプニングも起こった(この取組の結果は上手投げで勝利)[11]。2014年1月場所は西十両筆頭で12勝3敗の好成績を挙げ、翌3月場所で新入幕を果たした。その3月場所は9日目に7敗目を喫したがそれ以降6連勝して8勝7敗と勝ち越した。5月場所は、場所前に蜂窩織炎を患い初日の朝に退院するという苦しい状況[12]だったが、9勝6敗とまたしても勝ち越した。三役目前となる東前頭筆頭まで最高位を更新した同年9月場所は、初日の大関琴奨菊戦で自ら「あり得ないですよね」と意外性を認める立合い変化を行い、大関戦初挑戦にして白星を挙げる[9]。取組直後に「今までやってなかったから、一度やってみたかった」と語っていた一方で「相手が食っても食わなくても親方には怒られる」とも心配していた[9]。しかし2日目から6連敗とその後は振るわず場所成績は6勝9敗の負け越しに終わった。[13], 2015年1月場所は東前頭2枚目で8勝7敗となり、敢闘賞の候補となり異例の再投票の結果、自身初の三賞となる敢闘賞を受賞した[14]。, 翌3月場所は新三役、小結の地位を通り越して関脇昇進を果たす[15]。モンゴルからの新三役(関脇)は、2014年11月場所の逸ノ城以来。初土俵以来所要23場所で新関脇は、1958年以降初土俵(幕下付け出しを除く)としては9位のスピード昇進となった。新関脇の3月場所は初日から7連勝し、13日目にはそれまで36連勝だった横綱の白鵬を破るなど13勝2敗で殊勲賞、敢闘賞を受賞した。新関脇での13勝は史上最多タイ記録で、過去には1940年5月場所の五ツ嶌、1950年9月場所の吉葉山、2005年9月場所の琴欧州がいる。, 翌5月場所では12勝3敗で初の幕内最高優勝を果たし、5月27日の番付編成会議および理事会において、満場一致で平成生まれ初の大関が誕生した。但し審判委員の一部には「大関昇進の3場所前は平幕の地位が引っ掛かる」「慌てて上げる必要は無い。もう一場所待つべきでは」との声もあったが、「直前場所での優勝は大きい」と北の湖理事長らが重視した結果、最終的に新大関への異論は出ずに決定する[16]。なお三役2場所での大関昇進は年6場所制になった1958年以降では初めて。年6場所以前では1951年1月場所後に大関昇進の吉葉山以来64年ぶりとなった。, 大関昇進直後、2015年6月に行われた弥彦村の村おこしイベントで「どんな大関になりたいか?」と質問された照ノ富士は、「どんな大関ではなく、上を目指していますから。」[17]と答え、更なる昇進への意欲を示した。大関昇進伝達式でも「さらに上を目指し精進いたします」と口上を述べていた[15]。, 2015年7月場所は新大関として初登場し初日から6連勝と好調だったが、7日目に豪栄道に敗れ初黒星。9日目稀勢の里に勝ち8勝1敗と勝ち越したが、その後11日目に白鵬、12日目に鶴竜の両横綱に敗れて優勝争いから脱落。千秋楽は大関角番脱出を賭ける7勝7敗の琴奨菊に立合いで変化されて勝ち越しを許し、結果11勝4敗の成績だった。元大関の鳴戸(琴欧洲)・二子山(雅山)・藤島(武双山)各親方らは、照ノ富士の新大関場所に「100点満点、十分の内容。大関昇進で多忙となる中、硬くなる初日に勝てたのは大きい。大関の責任は果たした」と称賛。但し玉ノ井親方(栃東)は「優勝を逃したので90点。今後も最後まで優勝戦線に加わって欲しい」と奮起を促していた[18]。, 2015年9月場所は横綱白鵬が3日目から途中休場となる中、初日から一人11連勝していた。しかし12日目の栃煌山戦で初黒星、翌13日目の稀勢の里戦で寄り倒された時、右膝を負傷。14日目の豪栄道戦に強行出場するもあっさり寄り切られ3連敗。それでも千秋楽結びの一番では、過去4戦4敗だった単独トップの横綱鶴竜を寄り切って初勝利。12勝3敗同士の優勝決定戦へもつれ込んだが、鶴竜に上手出し投げで敗れ、惜しくも2回目の幕内優勝はならなかった。場所後の精密検査で「右膝の前十字靱帯損傷・外側半月板損傷などで1か月の加療を要する」との診断書が下され、秋巡業は休場[19]。また翌11月場所、照ノ富士の綱獲りについて北の湖理事長は「優勝又は13勝以上ならともかく、12勝の優勝同点では軽過ぎる」と否定的な意見を表明した[20]。, 2015年11月場所、右膝の怪我が完治しない中強行出場するも9日目の大関稀勢の里戦で4勝5敗と黒星が先行。その後は12日目・豊ノ島戦で敗れるも、13日目の横綱鶴竜戦で叩き込んで7勝6敗とし、翌14日目に日馬富士と優勝を争った横綱白鵬を大相撲の末寄り切り、ようやく勝ち越し。結果9勝6敗で取り終えたが、同2015年の年間最多勝(65勝25敗)は、白鵬(66勝12敗12休)に僅か1勝届かず初受賞を逃した。, 2016年1月場所、4日目の碧山戦で寄り切りで勝った際に右肩を負傷した。5日目の旭秀鵬戦では右腕が全く使えないまま寄り切られ、苦悶の表情を浮かべる。翌6日目の栃煌山戦は不戦敗、右鎖骨骨折(全治不明)により自身初土俵以降初めての休場となった。1月18日には以前から傷めている左膝の内視鏡手術を決行。次の3月場所は、自身初の大関角番となった。, 3月場所も膝の状態は完全ではなく、中日までに平幕相手に3敗を喫する苦しい場所となったが、12日目に鶴竜を下しなんとかカド番を脱出した。しかし、その後は3連敗で8勝7敗で取り終えた。, 5月場所は膝の状態が3月場所よりも悪く、初日から2連勝した後は格下相手に踏ん張りが効かず6連敗となった。続けて2横綱にも敗れ、10日目にして次場所での2度目のカド番が決まった。その後も連敗は続き1968年秋場所の豊山以来、48年ぶりの大関1場所10連敗を記録した[21]。さらに翌日、大関の琴奨菊にも敗れ、大関としては69年ぶりとなる同一場所での11連敗を喫した。これは年6場所15日制定着後では初めての事態となった(不戦敗、休場を含まない場合)。15日制以前でも相撲協会広報部によると年2場所の47年11月場所に11日制で11戦全敗した大関名寄岩の例のみとのこと[22]。途中休場ありの一場所15日制の記録では年3場所の51年に春場所で途中3日間の休場を挟んで12連敗(12敗3休み不戦敗あり)した汐ノ海に次ぐ記録となった[23]。そして11連敗の翌日。大関豪栄道に押し出され、不戦敗、休場無しで汐ノ海と1946年11月場所~47年11月場所の名寄岩(休場あり)の2人の大関連敗歴代ワースト記録に並んでしまった[24][25]。連敗のまま迎えた千秋楽。関脇琴勇輝に押し出しで敗れ皆勤で大関歴代ワースト記録を更新する13連敗を記録してしまった。さらに大関の一場所皆勤13敗は2009年3月場所の千代大海に並ぶ歴代ワーストタイ記録になった[26]。照ノ富士は記者に「強い大関と言われたこともあるが、これで弱い大関とも言われる。ずっと負けていたら楽しくない」「こういう時でも応援してくれる人がいるのはうれしい。いい時もくる。来場所を見てください」と語っていた[27]。, 2度目の角番で迎えた翌7月場所は初日に白星を記録し先場所からの連敗を止め、その後4連勝を記録した。しかし、その後3連敗を喫した[28]。その後、8日目に豪栄道に勝利し連敗を止めるが翌日から再び連敗。11日目から白鵬に勝利するなど連勝するも再び13日目[注 2]から連敗。14日目の敗戦後「しょうがない。できることをやって、できないものはいい」と現状を受け入れ、千秋楽に先場所敗れており、ここまで7勝7敗の同じく勝ち越しをかける魁聖との対戦を伝えられると「大丈夫」と自分に言い聞かせていた[30]。そして、迎えた千秋楽で魁聖に小股掬いで勝利し、大関の地位を保持した。照ノ富士は「今場所は長かった。来場所はけがを治してまた」と安堵の様子だった[31]。, 9月場所は、初日に嘉風に黒星するもその後連勝し隠岐の海に敗れた(物言いはついたが軍配通り敗れた。)あと、再び連勝と4勝2敗で白星が先行していた。しかしその後7日目から長期連敗し、この場所で幕内全勝優勝を果たした豪栄道等に何も出来ずに負けるなど精彩を欠く相撲が目立ち、12日目に碧山に押し出しで敗れ6連敗で負け越しとなった。これにより来場所は自身3度目の角番となる[32]。また取組後、過去10戦全勝の碧山に何もできず負けたことについて「弱くなってるな、俺」と語った[33]。さらにそのまま連敗を続け、横綱鶴竜に寄り切りで敗れ8連敗で10敗目を喫し、結局千秋楽も立合い変化するも寄り切りで稀勢の里に敗れて9連敗の4勝11敗で場所を終えた。11月場所は2016年内で3度目の角番となるが、同一年内に角番を3場所経験するのは、2005年の魁皇と千代大海以来。[34]10月14日の秋巡業豊橋場所では高安、錦木、貴ノ岩と22番取って6勝と不調で、特に高安には12連敗を喫した[35]。, 迎えた11月場所初日は、嘉風につり出しで敗れ大関で2度目の10連敗を記録した。その翌日も敗れ11連敗まで記録は伸びてしまうが3日目に隠岐の海に勝利しようやく連敗を止め、その後復調し8日目には大関琴奨菊を危なげなく寄り切りで倒すなど6連勝する[36]。さらに翌日も魁聖に上手投げで勝利で7連勝。九州入り後は状態も上向き「思い切って相撲を取れている」と自信も見せ[37]、2敗をキープし優勝争いに絡むも全勝だった横綱鶴竜に敗れ連勝がストップ。翌日の豪栄道にも敗れ優勝争いから脱落するも12日目に横綱白鵬に勝利し勝ち越しを決め、角番を脱出した。だが、終盤3連敗しそのまま8勝7敗で場所を終えた。この年の勝ち越しは全て8勝7敗で年間通じての成績は33勝48敗9休勝率.407、11連敗以上2回と膝の故障に苦しめられた年となった。休場ありでの48敗はこの年もっとも黒星を記録した平幕の佐田の海の51敗に3敗差でこの年の大関では当然ワーストだった[38]。さらにこの年の勝ち星33勝は6場所全て幕内にいた力士では最小で照ノ富士は「つらく、苦しい年だった。大関から落ちてもおかしくない状態だった」と話した[39]。だが11月場所は力なく押し出される場面は少なく「これだけ相撲取れるんだから、前よりはちょっとずつ良くなっている」と膝の状態が上向いていることも証明した[40]。また、「12日目から熱が出た。病気とけがが一気に集まってきた。よくこんな体で耐えられたと感じる」と勝ち越してからは発熱などで怪我と共に二重の苦労があったことも明かしていた[41]。しかし、冬巡業は古傷の左膝半月板の状態が思わしくなく相撲を取れない状態で帰京を余儀なくされ「なかなか治らない。筋などを切っているのでなかなか力が入らない」とため息をついていた[42]。, 2017年1月場所も初日から連敗し、先場所からの連敗は5まで伸びてしまうが3日目に勝利しようやく連敗を止めるも翌日から再び連敗。その後再び連敗を止めるとそこから3連勝を記録した。だが、その後再び連敗し4連敗で12日目に負け越しが確定し、これにより来場所は自身4度目の角番となった。この場所は大関琴奨菊が角番で負け越しで大関陥落。自身も来場所角番となる負け越しについて照ノ富士は「何とも言えない。弱いから負けたんでしょう」と元気が無かった[43]。結局、その後も連敗は止まらず7連敗で4勝11敗で場所を終えた。大関11場所目で4回目の角番は最速記録[44]。, 4度目のカド番で迎えた3月場所は初日から5連勝と好調で、6日目に高安に敗れるものの9日目に勝ち越して角番を脱出した。11日目には2015年9月場所以来となる二桁勝利を記録した。照ノ富士は「下がると怖い。無理してやっている」と打ち明け、地道にトレーニングなどを重ね「痛みはあるが、先場所より稽古できているし、動けている。我慢できている」と手応えを話していた[45]。さらにその後も白星を重ね、14日目には自己最多タイの13勝目を記録し、優勝に王手をかけた[46]。先場所の負け越しで大関から関脇へ陥落した琴奨菊の大関復帰を阻止した。千秋楽に、13日目に負傷している稀勢の里戦で勝てば11場所ぶり2回目の優勝という、絶対的に有利な立場にあったが、左への変化こそ堪えたものの捕まえきれないまま前に出たところに繰り出された突き落としの餌食になってしまい、優勝決定戦に持ち込まれた。さらに優勝決定戦、今度は立ち合いからすぐにもろ差しが決まって万全の態勢で一気に出るが、土俵際決死の小手投げを食らって叩きつけられてしまい、手負いの相手に連敗して逆転されるという悪夢のような展開で、すぐそこまで迫っていた優勝は手からすり抜けていった[47]。, 「照ノ富士はこの場所準優勝なら来場所綱取りになるのか?」と報道陣に聞いたりしていたが[48]1月場所は4勝11敗の負け越しなど不安定な成績であったため、5月場所での綱取りの声は上がらなかった[49]。北村正任横審委員長も「内規は絶対的なものではない。準優勝、優勝で上げるなら横審はいらない。(成績が)安定しないと議論にならない」と長期的視点の必要性を説いている[50]。場所後の3月31日、14日目の相撲で変化をして勝ったことから「モンゴルへ帰れ」という野次を受けたことに関して日本相撲協会が日本政府から事実関係などの問い合わせを受けたことが、協会関係者の話で分かった。関係者によると、協会は、当該の野次を事実として確認するのは困難とした上で、円滑な競技進行や安全で平穏な観戦の確保を目的とした「観戦契約約款」に基づき、今後も来場者に対応していくと回答したという[51]。照ノ富士は優勝争いで古傷の左膝が悪化。場所後にモンゴルに帰国し治療とリハビリに専念し4月17日の東京・靖国神社奉納大相撲で春巡業に復帰した。また、膝の状態について「体調は徐々によくなっている。モンゴルでは入院して治療していた」「休んでも治らない。稽古しながら休まずに徐々に鍛えた方がいい。相撲取りなので」としていた[52]。, 5月場所は初日から遠藤、玉鷲と連敗を喫した。2日目の取組後には「…。体の動き?

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