この後もなおもポツダム宣言に条件付きで応じるか、無条件かをめぐって陸軍が強行に条件付きを主張するも、再び14日に天皇の意向が示された。そして翌日に終戦となるも、この日にはいわゆる宮城事件という近衛師団将校の反乱が起きるも、これは鎮圧された。, なおソ連による8月9日対日参戦布告は、広島への原爆投下を知り、ソ連の仲介や圧力なく日本がアメリカ単独で降伏してしまうことを恐れてのことだったとの説が有力である。, (1)少しでも大きな損害を与えて、それを契機に和平を図る(天皇による一撃和平論) 1943年9月~1945年6月, (2)ソ連を通じて講和に持ち込む(戦争指導者会議での決定) 1945年6月22日~1945年8月9日, その間、近衛文麿を中心とする工作もあったが、これが直接の成果を結ぶことはなく、むしろ沖縄戦の敗北と日本各都市が壊滅的になるほどの空襲をへて、やっと(2)ソ連を仲介とした和平工作が動き出した。ここまで、昭和天皇の言う勝利の見込みを失ったという1943年9月から1年と9ヶ月。, そしてソ連を仲介とする工作も、これも実を結ばず。これは単に陸軍を中心とする国際情勢を甘く読んだが故に単に終戦をおられせただけの結果となる。ポツダム宣言が出た7月26日もこれに積極的に受諾の動きは見当たらない。むしろこれに対する国内世論と陸軍への目配せを考えた鈴木首相の発言がマイナスになった。, 陸軍を中心とする戦争継続の強硬派の存在という原因がもちろん最大の終戦が遅れた原因となるのは当たり前の話だが、これに輪をかけて以上のような紆余曲折があったわけである。, そうすると本格的に陸軍首脳も含めたポツダム宣言受け入れのきっかけとなったのは、8/6の原爆投下だったことになる。, 「聖断まで時間がかかったことは問題を残した。太平洋戦争における日本の戦死者175万人の過半数と民間人死者80万人のほとんどがサイパン陥落(1944年7月)以後であるこを考えればなおさらである」(『昭和天皇-理性の君主の孤独』古川隆久), 拝見いたしました。何故こんなことになってしまったのでしょうか。 第2次世界大戦末期の1945年7月26日、米英中が日本に対し、降伏を求めるポツダム宣言の文書を出した。

https://reg31.smp.ne.jp/regist/is?SMPFORM=thl-ndkak-6a972dbb09668f4fa297e1fc5fb2f0fe, 1953(昭和28)年生まれ。早稲田大学社会科学総合学術院教授(公文書研究)。早稲田大学第一文学部卒業。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。2016年オックスフォード大学客員教授。著書に『原発・正力・CIA』『歴史問題の正解』など。, 英国で「末席」を用意された天皇陛下を「最前列」に呼び寄せた人物とは? 天皇陛下が尊敬される理由, 木嶋佳苗、座間9人殺害事件の犯人が住んでいた間取りの不思議な共通点 事故物件芸人とイヤミス作家が語る、ヤバい部屋, 「それはもう、タモリさんの領域ですよね」ハライチ岩井を前に佐久間Pと能町みね子がその面白さを徹底解剖, 非行少年たちはなぜケーキを3等分にできないのか “認知機能”に問題を抱えた子どもたちの実態, 子どもに「規則正しい生活」は必要ない 息子3人を「スタンフォード大学」に合格させたアグネス・チャンが考える教育法, 松村北斗出演「一億円のさようなら」 “わかりやすい話”で終わらない原作の魅力

ポツダム宣言(ポツダムせんげん、英: Potsdam Declaration)は、1945年(昭和20年)7月26日にイギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において日本に対して発された、全13か条から成る宣言である。正式には日本への降伏要求の最終宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)。宣言を発した各国の名をとって、「米英支三国共同宣言」[1]ともいう[2]。, 他の枢軸国が降伏した後も交戦を続けていた日本は、1945年8月14日にこの宣言を受諾し、1945年9月2日に調印・即時発効(降伏文書)に至って第二次世界大戦は終結した。, ドイツ降伏後の1945年(昭和20年)7月17日から8月2日にかけ、ベルリン郊外ポツダムにおいて、英国、米国、ソ連の3カ国の首脳(イギリスの首相ウィンストン・チャーチルおよびクレメント・アトリー[3]、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリン)が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について話し合われた(ポツダム会談)。, ポツダム宣言は、この会談の期間中、イギリスのチャーチル首相と中華民国の蔣介石国民政府主席、米国のトルーマン大統領の共同声明として発表されたものである。ただし宣言文の大部分はアメリカによって作成され、イギリスが若干の修正を行なったものであり、中華民国を含む他の連合国は内容に関与していない。英国代表として会談に出席していたチャーチル首相は当時帰国しており、蔣介石を含む中華民国のメンバーはそもそも会談に参加していなかったため、トルーマンが自身を含めた3人分の署名を行った(蔣介石とは無線で了承を得て署名した)。ソ連は署名していない 。, 1945年(昭和20年)8月14日、日本政府は宣言の受諾を駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、このことは翌8月15日に国民に発表された(玉音放送)。9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎および連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。これにより、宣言ははじめて外交文書として固定された。, 1943年1月のカサブランカ会談において、連合国は枢軸国のナチス・ドイツ、イタリア王国、大日本帝国に対し、無条件降伏を求める姿勢を明確化した。この方針はアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領の意向が強く働いたものであり[4]、11月17日のカイロ宣言においてもこの姿勢は確認された。ソ連の最高権力者ヨシフ・スターリンやイギリスのウィンストン・チャーチル首相は条件を明確化したほうが良いと考えていたが、結局ルーズベルトの主張が通った[4]。政府内のグループには天皇制維持などの条件を提示したほうが早期に対日戦が終結するという提案を行う者も存在したが、大きな動きにはならなかった[5]。ルーズベルト大統領が閣僚たちに相談もせずに突然決めたこの方針は、敵国の徹底抗戦を招き、無用に戦争を長引かせるとして、陸海軍の幹部はもとより、国務長官のコーデル・ハルも反対したが、ルーズベルトは死ぬまでこの方針に固執した[6]。, この方針は、表明されてから8ヶ月後に早くも破綻した。1943年9月にイタリアが連合国に和平を打診してきたとき、連合国側は無条件降伏を突きつけなかった。これまでと同じく、休戦協定によって戦闘が停止したのち、立場の強い方が弱い方に、自分に有利な終戦協定を押しつけるという従来の形で終戦がもたらされた。負けた側が条件にこだわるのは当然であったが、ルーズベルトはあくまで勝者の論理で、漠然としか考えていなかった[7]。, 1945年2月のヤルタ会談においてはルーズベルトが既に病身であったために強い姿勢に出られず、南樺太、千島列島、満州における権益などの代償を提示してソ連に対して対日戦への参加を要請した。4月12日にルーズベルトが死去し、副大統領に就任してわずか3か月のハリー・S・トルーマンが急遽大統領となった。トルーマンは外交分野の経験は皆無であり、また外交は主にルーズベルトが取り仕切っていたため、アメリカの外交政策は事実上白紙に戻った上で開始されることとなった[8]。トルーマン大統領は就任後、4月16日のアメリカ議会上下両院合同会議で、前大統領の無条件降伏方針を受け継ぐと宣言し、4月22日、日本とドイツに無条件降伏を求める方針に変わりはないことをソ連のモロトフ外相に伝えたが、彼もまた、それをどう規定するのかはっきり考えてなかった[9]。, 5月7日にドイツが崩壊したあと、できるだけ早期に対日戦争を終わらせる必要に迫られ、トルーマン大統領は日本に降伏を呼びかけるために、無条件降伏を定義する必要に迫られた。そこで彼は5月8日、戦時情報局が用意し、大統領軍事顧問ウィリアム・リーヒが賛同した、次のような無条件降伏の定義と和平の呼びかけを、日本に対して発表した。「我々の攻撃は日本の陸軍と海軍が無条件降伏して武器を置くまでやむことはないだろう。日本国民にとって無条件降伏とは何を意味するのか。それは戦争が終わることを意味する。日本を現在の災厄へ導いた軍事的指導者の影響力が除去されることを意味する。無条件降伏とは日本国民の絶滅や奴隷化を意味するのではない。」またアメリカ政府による日本に降伏を求める、海軍情報局から戦時情報局に出向していたエリス・M・ザカライアス海軍大佐の「ザカライアス放送」が8月4日までに14回行われている[5][10]。もともとアメリカ軍の幹部は、無条件降伏が政治的スローガンにすぎず、早期和平の妨げになると思っていたので、無条件降伏とは軍事に限定されるのであって、政治的なものではないことを明らかにすることによって、日本に受け入れられやすいものにしようとした[11]。しかし日本政府は5月9日に徹底抗戦を改めて表明するなど、これを受け入れる姿勢をとらなかった[5]。, この時点でアドルフ・ヒトラーの死はスターリンによって隠されており、日本やアルゼンチンに逃亡していると噂されていた。, アメリカ合衆国政府内では、日本を降伏に追い込む手段として、原子爆弾の開発、日本本土侵攻作戦(ダウンフォール作戦、コロネット作戦等を包括する総合計画)、ソ連の対日参戦の三つの手段を検討していた。原子爆弾はその威力によって日本にショックを与えることができると考えられ、開発計画が進展していた。一方で陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルを中心とする軍は、日本降伏には日本本土侵攻作戦が必要であるが膨大な犠牲を伴うことが予想され、それを軽減するためにはソ連の参戦が必要であると考えていた[12]。ソ連の参戦は日本軍を大陸に釘付けにするとともに、ソ連を仲介として和平を試みていた日本に大きなショックを与えるとみられていた[12]。, 一方で国務次官ジョセフ・グルーをはじめとする国務省内のグループは、政治的解決策を模索していた。グルーは日本が受け入れ可能な降伏可能案を提示して降伏に応じさせる、「条件付き無条件降伏」を提案していた[13]。5月28日には天皇制を保障した降伏勧告案をトルーマン大統領に提示した[14]。一方陸軍長官ヘンリー・スティムソンは無条件降伏原則を破ることに否定的であったが、日本本土侵攻作戦の犠牲者数想定が膨大なものとなると、グルーやジョン・マックロイ(英語版)陸軍次官補、ハーバート・フーヴァー元大統領らの意見に従い、降伏条件提示に傾くようになった[15]。, 1945年6月18日のホワイトハウスにおける会議で、日本本土侵攻作戦が討議された。スティムソンは日本本土侵攻作戦に賛成の意を示しつつも、政治的解決策が存在することをほのめかした[16]。マックロイはこの会議の最中発言せず、会議終了直前にトルーマンがマックロイの意見を問いただした。マックロイは「閣下は別の方策をお持ちだと思います。それは徹底的に検討されるべき方法で、もし我々が通常の攻撃および上陸以外の方法を検討しないのであれば、どうかしていると言われても仕方の無い事だと思いますよ。」「我々が良しとする条件を日本政府に対して説明してやる事です。」と答え、政治的解決策の重要性を主張した[17]。トルーマンが具体的にどういう条件かと聞いたところ、マックロイは「私は、日本が国家として生存する事を許し、また立憲君主制という条件でミカド(天皇)の保持を認めるという事です」と答えた。トルーマンは「それはまさに私が考えていたことだ」と答え、スティムソンも「(この案が表明されたことは)たいへん喜ばしい」と同意した[18]。マックロイは原爆の投下についても事前に日本に警告を行うべきであるとしたが、もし爆発が失敗した場合にアメリカの威信に傷が付くという反発を受けた。トルーマンはマックロイに日本に対するメッセージについて検討するべきであると命じたが、原爆については言及しないようにと付け加えた[19]。これはトルーマンも対日降伏勧告の意志を持っていたが、マーシャルらの手前自ら主張することは好ましくないと考え、マックロイらに口火を切らせたとも見られている[20]。これ以降、スティムソン、マックロイらを中心とした陸軍が日本への降伏勧告案について検討を本格化するようになった[21]。, 6月19日、陸軍、海軍、国務省の検討機関である三人委員会(Committee of Three)、すなわちスティムソン、ジェームズ・フォレスタル海軍長官、グルーらによって対日降伏勧告の討議が始まった。フォレスタルの回想によると、対日降伏勧告には大統領付参謀長ウィリアム・リーヒ元帥やアーネスト・キング、チェスター・ニミッツといった海軍首脳も賛成していると述べられた[22]。この日の午後、スティムソンの起草による対日降伏勧告のための大統領覚書の口述筆記が開始された[22]。6月26日の三人委員会ではスティムソンがこの覚書案となる「対日計画案」を提示した[22]。, この降伏勧告はアメリカとイギリス、そしてもしソ連が参戦していた場合にはソ連の首脳も加えた名義で公表されるとしていた。またスティムソンは個人的意見として現皇統における立憲君主制を排除しないことを付け加えれば降伏は実現しやすいであろうと述べた[23]。また宣言発表のタイミングは日本本土侵攻作戦が行われる前、日本が狂信的な絶望に追い込まれる前に行う必要があるとした。またソ連の参戦が行われても、ソ連軍の侵攻があまり進展しないうちに行うのが望ましいとした[23]。委員会ではこの勧告が実際に行われて失敗した場合でもアメリカ国民の戦意を高める効果があり、失敗しても害はないと判定され[23]、スティムソンの原案をグルーとフォレスタルは承認した。, 三人委員会は実際の降伏勧告文を策定する小委員会を結成させ、そのチームに検討を行わせる事とした。この委員会はマックロイ、海軍長官特別補佐官のコレア大佐、国務次官補特別補佐官のユジーン・ドゥーマン、国務省極東課長ジョセフ・ウィリアム・バランタインらによって構成されていた[24]。トルーマンはポツダム会議のために7月6日にはアメリカを離れるため、委員会はそれまでに宣言案を策定する必要があった。6月27日に最初の委員会が開かれた。最初の会議にはコレアとドゥーマンは欠席したため、バランタインを除いたメンバーはすべて陸軍関係者であった。討議においてはスティムソン案を原案とすることとなっており、マックロイが実質的な委員会の主宰者となった[24]。しかしバランタインが国務省案の降伏勧告案を提議したため、議論は難航することとなった。国務省案は以前グルーが大統領に提出していたドゥーマン案を元としており、天皇制の存続については極めてぼやかした表現となっていた。このため国務省案は会議によって退けられ、再びスティムソン案を中心として討議されることとなった[25]。この日の会議で陸軍作戦部(OPD)のファーヒー大佐が宣言の発出者に蔣介石を加えるべきであることや、連合国と日本が交渉を行うべきでないことなどの意見を述べた。, 翌6月28日の会議でドゥーマンは天皇制保障の文言を入れるべきでないと主張した。グルーら国務省内の知日派は天皇制保障が不可欠であると考えていたが、これらの意見は対日融和的であると批判され、国務省内でも世論の反発を怖れ、彼ら知日派は孤立する傾向があった[26]。ドゥーマンはこの降伏勧告を日本が受け入れる可能性は極めて低いと考えており、文言に対するアメリカ世論の反発を防ごうと考えていた[26]。1945年6月のギャラップ調査によると33%が昭和天皇の処刑を求め、17%が裁判を、11%が生涯における拘禁、9%が国外追放するべきであると回答するなど、天皇に対するアメリカ世論は極めて厳しかった[27]。, スティムソンら陸軍は天皇制保障が必要不可欠であると考えており、議論は紛糾した。しかし陸軍が議論の主導権を握り、OPDのチャールズ・H・ボーンスティール3世が、国務省案を一部参考にしながらもスティムソン案を基本的な原案とする箇条書きの草案を作成することとなった。ボーンスティールは周囲からの助言も受けて6月29日までに草案を策定した。6月29日の早朝にボーンスティール草案がマックロイの元に届けられた。この日の委員会でボーンスティール草案が採択されたが、国務省はこの草案は国務省で再検討されなければならないと条件をつけた[28]。またOPDは同時期に宣言発表のタイミングとしてソ連の対日参戦直後が最も効果的であるという勧告を行っている[28]。マックロイはスティムソンにボーンスティール草案を送付し、6月30日からスティムソンとともに草案の修正作業を行った。スティムソンは「かなりの修正をした」と回顧録に残している[29]。7月2日、スティムソンはこの修正草案と6月26日の「対日計画案」一部修正したものをトルーマンに提出した。この修正草案は13条となっており、「現皇統による立憲君主制を排除しない」という文言も入ったものであり、第二項で「日本国が無条件降伏するまで」という文言はあるものの、日本軍隊の無条件降伏を求めたものであった[30]。, 7月3日、ジェームズ・F・バーンズが新たな国務長官に就任した。バーンズはトルーマンに信頼された私的な助言者であり、彼の就任はスティムソンの大統領に対する影響力を低下させた[31]。バーンズは対日強硬派であり、国務次官補アーチボルト・マクリーシュをはじめとする親中国派は巻き返しを図った。7月6日、国務省はスティムソン草案のさらなる改訂を要求し、7月7日の幹部会で草案が「日本」「日本政府」に呼びかけていた部分が「日本国民」に変更された[32]。省内の混乱を見たバーンズはコーデル・ハル元国務長官に相談し、直接天皇制に言及した天皇制保障条項を一旦削除することを考えるようになった。バーンズは占領の際に天皇制が利用できるかどうかを見た上で、天皇制の存続をアメリカが決定できるようにと考えていた[32]。, ポツダム会談の公式日程では対日問題は議題とならなかった。一方でスティムソンは日本がソ連に和平仲介を求めていることを察知し、日本がソ連の懐に飛び込む前に日本を降伏させるべきと考えた。そのためこの会談中に降伏勧告を発するべきと主張し、リーヒ参謀長の支持を得たものの、バーンズは反対した。またリーヒ参謀長は、草案第二項において「日本の無条件降伏」となっていた部分を「日本軍の無条件降伏」と改め、天皇制保障条項を「日本国民は自らの政治形態を決定できる」と天皇に言及しない形に改めるよう提案した[32]。トルーマンは公表の意思を固め、リーヒの提唱した変更を行うと決定した。スティムソンは天皇制に言及しないことが日本の降伏拒否を招くのではないかと懸念し、もし日本側がこの一点で戦い続けるならば大統領が外交チャンネルを通じて「口頭で保証」を与えるように提案した。トルーマンはスティムソンの意見を承諾し、後の国務省による回答につながることになる[32]。, 7月24日にイギリスに声明案が提示され、翌7月25日にチャーチルが修正案を回答した。その内容は声明が呼びかける対象を「日本国民」から「日本」「日本政府」に再度変更すること、民主化の主体を「日本政府」と明記すること、占領の対象を「日本領土」から「日本領土の諸地点」に変更すること、の三点であった[32]。トルーマンはイギリスの修正を全面的に受け入れ、声明発出の準備を行うとともに原爆投下命令を承認した。会談に参加しなかった蔣介石には、電報で草案が伝えられた。蔣介石は宣言文の一か所だけを直してきた。それは自分は国家元首だから、(元首でない) チャーチルより前に自分の名前が置かれるべきである、ということであった[33]。7月26日、「ポツダム宣言」として知られる降伏勧告がトルーマン、チャーチル、蔣介石の名で発表された。また宣言文はポツダム協定の付属議定書に「検討されたアメリカ提案」として付記された。, ベルリン時間の7月26日午後9時20分の宣言の発表と同時にトルーマン大統領は戦時情報局 (OWI) に対し、この宣言をあらゆる手段で日本国民に周知させることを指示した。これに基づき東部戦時時間午後4時(東京時間7月27日午前5時)OWI の西海岸の短波送信機から英語の放送が始まった。重要な部分は4時5分から日本語で放送された。日本語の全文は OWIサンフランシスコ支部が作成し、ワシントンD.C.の国務省の言語専門家が電話でチェックしたのち、午後6時(東京時間午前7時)サンフランシスコから放送された。その後、日本語の放送は西海岸の11の短波送信機、ホノルルの短波送信機、サイパンの中波送信機が繰り返した。すべての定時番組は中止され宣言の放送を繰り返した。西海岸からは20の言語で宣言が放送された。その後数日間に渡って一定間隔で宣言の放送が繰り返された。日本側では外務省、同盟通信社、陸軍、海軍の各受信施設が第一報を受信した[34]。, ポツダム宣言の発表をうけた日本政府ではこの宣言に対する対応を検討した。宣言文の翻訳に当たったのは条約局第一課長下田武三であった。外務省定例幹部会は受諾はやむを得ないが、未だ交渉の余地はあり、「黙っているのが賢明で、新聞にはノー・コメントで掲載するよう指導するのが適当である」という決定を行った[35]。これをうけた外務大臣東郷茂徳は最高戦争指導会議と閣議において、「本宣言は有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言した[36]。しかし陸海軍からはいずれ本宣言は世論に伝わるため「断固抵抗する大号令」を発せられるよう指導するよう主張した[35]。結局東郷の意見が通り、ポツダム宣言を公式に報道するものの、政府は内容について公式な言及をしないということが閣議決定された[35]。, 7月27日、日本政府は宣言の存在を論評なしに公表した。ところが翌28日の新聞報道では、読売新聞で「笑止、対日降伏条件」、毎日新聞で「笑止!



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